福祉避難所の運営、震災復興の取り組みと防災減災対策、災害時の議会対応について
石巻市役所での行政視察を前に、大震災の現場や当時の状況を視察する計画になっていた。奥羽山脈の山形蔵王からトンネルをくぐると宮城県石巻市に抜けた。「みらいサポート石巻」の語り部である高橋さんが視察バスに同乗して頂き、一時間ほど現地視察と解説をしていただいた。
「みらいサポート石巻」とは、2011年3月11日の東日本大震災発生後に発足した「NPO・NGO連絡会」事務局機能からスタートし、5月13日「一般社団法人石巻災害復興支援協議会」として設立。翌年の11月22日に「みらいサポート石巻」に改名、その後2015年7月1日に宮城県から公益認定を受けて「公益社団法人みらいサポート石巻」として、復興支援の連携から、震災伝承の連携へシフトをしているとのこと。今回の語り部もその事業の一つであり、高橋さんも震災の被災者であった。
石巻の復興は仮設住宅と災害公営住宅、そして自主再建の3つの方法で進められており、16,2万人から14,5万人に人口は減少している。実に平野部の30%が浸水するという被害地であった。当時、海辺だけでなく津波が旧最上川を15キロ遡上したそうで、大変な被害をもたらした。地震により牡鹿半島が1,12メートル地盤沈下し、石巻市も62センチ沈下したとのこと。石巻は水産業のまちで全国3位の水揚げを誇っていたそうで、水産会社が震災前は200社あったが、復興後は6割、約120社余りになっている。今は河川堤防と高盛り土道路の間に石巻魚市場が2015年9月に再建され、全長880メートル、朝6時から8時半にセリが行われているとのこと。
再開発では、高盛り土道路の内側に住宅、海側に水産加工会社のみが建設許可されるルールになっている。水産加工会社には「津波避難ビル」指定があり、外に屋上への非常階段が設置され、屋上に非常食などの備蓄がされているとのこと。津波避難タワーも建設されており、3階に100人、屋上に100人避難でき、太陽光発電と備蓄庫が設置してあった。仕事中の津波の際に避難できる施設である。門脇地区という100人規模のまちも、最大津波6,2メートルに対し7,2メートルの防潮堤があり、高盛り土道路4,5メートルが内側に設置され二重の対策が取られていた。1300人の従業員がいるクリネックスの日本製紙の工場もあり、火力発電所も併設され操業していた。石巻日日新聞(ひびしんぶん)は手書き壁新聞を3・11から6枚発行し、震災情報を伝えた唯一の新聞社だとして紹介されていた。
石巻市役所は百貨店が撤退したビルに移転されていた。語り部の話を聞きながら、移転が被災地から震災の一年前に行なわれていたことをきいた。ここが、災害復興に向けての足場となったのである。東日本大震災で、広大な家屋と土地、人々の生活が一瞬にして奪われた現地を見て、その面積から想像する復興の大変さの中で、水産業はじめ自立に向けた頑張りを、語り部の高橋さんから感じ取った次第である。